錦帯橋の近くは、現在「西岩国(にしいわくに)」と呼ばれています。ここは旧吉川藩の城下町であったところで、岩国市岩国という住所があらわしているように、本当の(?)昔からの岩国の町並みが残っているところです。そして、岩国市の行政・経済の中心が他地区に移ってからは、「にしいわくに」とか「にし」とよばれるようになりました。それでも昭和40年代まではそれはそれはとても栄えた町でした。
しかし、世の中が自動車を必要とする社会へと変化するとともに、道幅がおよそ3~4mしかないこの町は寂れていったのでした。


西岩国には江戸時代からの歴史的な町名が残っています。

岩国七町 玖珂町 現在の山口県玖珂町(山陽道の宿場町として栄えた玖珂市)からの商人がすみ移った町
柳井町 中世から港町として栄えた、現在の山口県柳井市からの商人がすみ移った町
鍛冶屋町(旧米屋町) 鍛冶屋・塩屋・魚屋・材木屋・豆腐屋が多く住んだ町
塩町
魚町
材木町
豆腐町(登富町)
その他 寺町 寺院が多く見られる町
曲尺町(さしがねちょう) 曲尺状にまがった通りになっている
鉄砲小路・大名小路・朗小路・橋本(元)町 ・扇町・豆腐(登富)横町 等

西岩国は約400年前、吉川広家が出雲富田から移封された時、三つの川が流れる河川敷の荒れ地を、一つの川を残して整理して造った城下町です。
1601年から錦見(にしみ)の町割が行われ、中央の通りである大名小路の西の二筋が町屋敷に当てられました。二筋のうち、東側の通りを本町と称し、上手より玖珂町・柳井町・米屋町(のちの鍛冶屋町)・塩町に分け、裏町を材木町・魚町・豆腐町としました。これを岩国七町と称しました。この岩国七町は強制的に領内各地から商人を移住させて新しく造った町であり、地子(土地税)が免除されました。

玖珂町・柳井町には反物屋、荒物屋、小間物屋、両替商、仕立屋、薬屋、帯屋、など多種多様な店が並び、現代でいう商店街を形成していました。特に玖珂町は本町通りの中心街であり、藩の客を応接する御客屋(おきゃくや、町奉行書を併置)や目代書がありました。この町には当時、岩国縮、紅染、などと並ぶ岩国の名産品の一つであったびん付け油「松金油」の製造元であり、岩国随一を誇った「松金屋」の家屋が昔の面影をそのまま残しています。「松金屋」は大正時代まで続いた老舗でした。
また、本町通りの鍛冶屋町は江戸時代中期以前は米屋町と呼ばれており米屋が多く集中した町でした。本町通りから一筋西に位置する魚町、豆腐町には食料品を取り扱う商家が並んでいました。今も建物に古めかしさを残した商店が並ぶなど当時の面影がしのばれます。『探検・西岩国の町』に登場する、「うまもん」さんはこの魚町にあります。その昔は代々藩の御台所問屋を勤めた甘露醤油「千年醤油」の醸造販売元だったそうです。現在は漬物屋となっていますが、江戸時代の建物を生かしたお店です。
「豆腐町」はその名のとうり、大豆製品や揚げ物、惣菜など日常の食品を取り扱う店が集まっていました。この「豆腐町」は1853年に世の中の不景気を転換させる手だてとして改名を願い出ましたが許されず、「登富町」と改字する事になりました。

私はこの登富横町の出身で、小さい頃からこの界隈で育ちました。昔は人の往来が激しく、総菜屋さん、蒲鉾屋さん、八百屋さん、魚屋さんなどとてもにぎやかな町でした。今のスーパーマーケットのような人の往来があり、活気がありました。そしてスーパーにはない、お店の人とお客さんのやりとりがありました。子ども達も路上で『六虫』などの遊びをしていました。 ただ、子供会の名前も「東とうふ町子供会」という名前だったので、よく友達からチェックがはいっていました。

岩国の町は周防東部の経済活動の中心地として栄え、町も自然に拡張していったのでした。 1649年、錦帯橋下の土手の外側に懸作りされた町屋の列が町方に編入され、土手町と呼ばれました。土手町の家は表は土手に懸け、裏側は棒杭を打った上に懸けて造られており、今もその名残を見ることができます。
この町も1654年の大火でその大半を焼失し、1655年改めて町割りを行い、現在までその姿をとどめています。錦見は岩国藩の家臣団の多くが居住していた地域です。錦帯橋からまっすぐのびる通りが大名小路で、城下町岩国のメインストリートで、日光寺(廃寺)で突き当たってかぎ状に屈折し、再び浄福寺で屈折し、寛永年間頃にできた新小路へとのびています。現在、日光寺があった場所の道路は車が通りやすいように付け替えてあります。